風景写真

浄土宗 海隣山 観音院 心光寺

宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀三尊仏
宗祖 法然上人(円光大師)
総本山 知恩院
(京都市東山区新橋通大和大路東入ル三丁目林下町)

由 来

 織田信長が天下統一を目指していたころ、陸奥国磐城磐前郡小名西町村に一宇の観音堂があった。天正二年(1574年)浄土宗名越派の檀林専称寺で学んだ益蓮社良゚上人吟益大和尚がこの観音堂に来て一寺を創建した。海隣山観音院心光寺である。開山上人の出身地も俗性も詳らかではない。ただ天正か慶長の、何れかの十六年七月九日に入寂したことのみが伝えられる。

 寛永二十年(1643年)八月、浄土宗名越派四本寺の一つ如来寺は当寺を末寺とした。これより昭和十五年に本末制度が廃止されるまで如来寺と本寺・末寺の関係が続いた。

 延宝五年(1677年)十月九日、突然磐城を襲った大津波は当時の檀家の人々に多大な被害をあたえた。元禄九年(1696年)六月二十八日には大風が吹き高波となり、小名浜四ヶ村にて八百四十六人の漁船員が溺死する海難事故がおこった。十世良教上人その犠牲者を哀れみ、大施餓鬼を行ってその菩提を弔った。享保二年(1717年)磐城一円に疫病が蔓廷、小名浜四ヶ村でも三百余名の幼児が死亡した。十一世良比上人この霊を慰めるため三回忌にあたる同四年追善供養を行った。同十三年(1728年)は元禄九年の海難事故の三十三回忌にあたるため、十三世良風上人は六月に四十八夜興行を行い犠牲者の追善供養を行った。

 良風上人は元文二年(1737年)十一月、初めて当寺の住職として本寺の如来寺の三十世住職に昇進した。以後当寺代々の上人は本寺の住職に出世する例が多く、本寺に次ぐ寺となった。

 十四世良義上人は本尊阿弥陀如来の新造を発願し、元文五年(1740年)六月、藩に出願、翌寛保元年七月朔日本尊の入仏式を行って別時念仏を興行した。なお当寺においては宝暦年間(1751〜64年)より、三年に一度三十日間、千日の大回向を行って檀家の死歿者の霊を弔ってきたが、天保十年(1839年)以後中断してしまった。嘉永三年(1850年)七月再び行われたが、この年限りで再び催すことはなかった。

 十九世良成上人は寛政十年(1798年)観音堂を再建し、享和二年(1802年)七月十八日に観世音菩薩並びに文殊菩薩の入仏式を行った。

 天保四年(1833年)慣例の大回向を行ったが当年は地震・冷害と、あらゆる災難が当町を襲い、そのため農作物は実らず浜は不漁となり飢饉となった。同七年もまた同様の大凶作となり飢饉となった。二十三世良゚上人、その惨事を「過去帳」に記し餓死者の霊を弔った。

 飢餓の余韻いまだ覚めぬ同九年二月、疱瘡が流行し、幼児が数多く犠牲となった。翌十年四月、十九夜講の講員観音堂に鰐口を奉納して幼児の霊を弔った。

 天保十年十月、高木丹蔵なる奇特な人が寺の周囲の畑九畝一歩を寺に永代寄進を行った。

 二十五世良解上人は嘉永五年(1852年)九月、本堂の屋根などの修復を行い、さらに安政二年(1855年)五月には本尊阿弥陀三尊並に位牌壇の内仏・厨子などの修復を行い寺の興隆をはかった。しかし残念なことに安政三年十月二十三日夜、上人の留守中火災が起こり堂宇のすべてが焼失してしまった。そこで檀家一同は一丸となって寺の復興に立ち上がり、早くも同年十二月二十八日より庫裏・台所を再建することになった。残念なことに本堂再建を手がけるまでには至らなかった。

 明治新政府は新しい政策を次々と実施したが、その一つに寺社境内地のすべてを官有地にする法があった。この結果当寺境内地千四百十五坪も官有地(固有地)となり、後日大部分の地は戻ったが、一部分の地は永久に戻ることはなかった。

 二十七世良導上人は明治十五年(1882年)十月、壇信徒の協を得て地蔵堂を再建した。本堂がいまだ再建できぬため地蔵堂を仮本堂として、しばらく使用した。昭和十六年(1941年)三月、願誉上人宗満三十一世として入山する。上人本堂焼失して八十余年なるも再建ならずを嘆いてここに本堂の再建を発願した。しかし同年十二月日米戦争が勃発のため木材の資材の調達は困難となった。そうした困難にも負けず昭和十九年(1944年)春彼岸、本堂は完成された。しかし完全な再建には至らず、その後も内陣等の整備に奔走した願誉上人は同二十八年入寂した。六十二歳。

 いわき市文化財保護審議会委員 佐藤 孝徳

 平成十七年 八月 二十二日

 

 

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